遺伝子解析サービスを提供する株式会社ジーンクエスト社長兼株式会社ユーグレナ執行役員の高橋祥子は、彼女自身がゲノムや生命の仕組みについて研究する生命科学者でもある。前回に引き続き、2021年のいま、知っておくべき生命科学の最新情報を聞いています。

生命科学のニュースといえば、昨年10月に発表された2020年のノーベル化学賞。狙った遺伝子を非常に高い精度で操作するゲノム編集技術「CRISPR(クリスパー)/Cas9(キャスナイン)」を開発した研究者2人が受賞し、話題となりました。

ゲノム編集と遺伝子組み換えの違いとは? 今後必要な「生命科学的思考」とは?

ゲノム編集食品が日本国内で初承認

―高橋さんには以前、ヒトのゲノム編集についてお話いただきましたが、私たちにとって、いま一番身近なゲノム編集の話題は何でしょうか?

ゲノム編集を応用した食品がもうすぐ日本で流通するという話です。今後、1~2年以内には市場に出てくるでしょう。

第1弾の食品は「トマト」です。ゲノム編集の技術を使って遺伝子を操作して、アミノ酸の一種「GABA(ギャバ)」を一般的なトマトよりも多く含むようにしたものです。GABAは血圧を下げるとされる成分で、ストレス緩和とか脳の疲れにも良いと言われていますね。

昨年12月、この開発されたトマトについて安全性に問題がないと厚生労働省が判断し、国内で初めて「ゲノム編集食品」として販売の届け出が認められました。

「遺伝子組み換え」と「ゲノム編集」は全く別物!

―「遺伝子組み換え」も遺伝子を操作しますよね?「ゲノム編集」と何が違うのでしょうか?

遺伝子組み換えとゲノム編集は同じように見られがちですが、全く違うものです。
遺伝子組み換えは、その植物が本来持っていない遺伝子を組み入れるイメージなのですが、ゲノム編集は、本来その植物が持っているゲノムの配列の1塩基を変えることによって機能性を変えます。自然界でも起こりうる可能性がある変異が入るということです。遺伝子組み換えとは全く違います。

これまでの遺伝子組み換え食品は、安く作ることができるとか、育てやすいとか、生産者メリットが押し出されていたのですが、ゲノム編集された食品は、味が良い、栄養素が豊富に含まれているといった、どちらかというと消費者メリットがうたわれています。

いま開発中のアレルギーが少ないとされるタマゴや身の量が多いマダイ、養殖しやすいサバなど、今後、ゲノム編集された生鮮食品が日本の市場に出てくるでしょう。

※ただし、ゲノム編集で別の遺伝子を組み入れる場合は、
遺伝子組み換えの規制対象となり安全性審査が必要となる。


―ゲノム編集は、人が手を加えなくても自然界でいつか起こる可能性があった変異を、狙って起こせるということですか?

そうです。もともと持っている遺伝子を編集するので、性質変化の予測可能性が高いですし、狙った遺伝子配列を変えることができるので、品種改良の期間もこれまでより短くすることもできます。

国によってスタンスは異なりますが、日本では「遺伝子を壊したゲノム編集食品に関しては、従来の品種改良による食品と差がない」と判断して、2019年、届け出を行ったうえで販売できる制度を新設しました。

でも、実際は、ゲノム編集の食品に反対している人たちもいます。ゲノム編集食品を食べたいかどうかという調査が行われたのですが、4割程の人が「食べたくない」と回答しました。

しかし、一方で、回答した同じ人たちに「ゲノム編集がどういうものか知っていますか」とアンケートを取ると、約9割の人がゲノム編集について「あまり知らない」、または「全然知らない」と回答したんです。つまりゲノム編集をよく知らずに反対している人もいるということです。

■新しいもの、知らないものに出会ったときに

すべてを理解するのは難しいとしても、どんなものなのか理解しないまま反対してしまうのは危ないことだなと思っています。新型コロナウイルスに対するワクチンの話も同じ。「よく分からないけど何だか怖いから打ちたくない」と感情論で話している人も結構多いように感じます。そういう感情論で処理してしまうと、ワクチンがとても有用なものだとしても使われない社会になってしまう。怖いとか不安だという感情とともにリスクとなる情報だけが先に広まって、結局メリットをとれない社会になってしまう可能性がある。

そうならないためには、まず感情を抜いた情報を理解したうえで、「じゃあ自分はどうしたいか」という感情も考えていく。ゲノム編集食品をきちんと理解したうえで、自分は「食べたいか食べたくないか」「賛成か反対か」というのならいいと思います。新しいもの、知らないものに出会ったとき、情報をインプットして感情も踏まえアウトプットするというやり方は重要な姿勢なのではないでしょうか。

■今の時代を生き抜くために役に立つ「生命科学的思考」

―「まず情報と感情を分ける」というのは、情報が溢れている今の時代をうまく生きるのに必要な考え方ですね。負の感情が混ざっている情報に影響されて不安になることもありますから。

ただ、不安という感情を持つのは、遺伝子が正しく機能している証拠です。危機に備えて、危機を察知して回避していくための守りの機能としてあるわけです。私たち、ヒトも生物なので、ヒトがとる行動はすべて生物の原則にのっとっています。お腹が空いたらご飯を食べるのも、眠くなったら寝るのも、個体として生き残って種として繁栄していく生命原則にのっとって行動している証です。他人と一緒に社会活動を行うのも、集団生活によって生存確率を上げるために行っているわけです。

不安を感じたときは、遺伝子の機能によるものであることを理解したうえで、今、自分は何を不安と感じているかを明確にして、どう対処すればよいのか考えて行動することが大事です。何だか分からない、具体性のない不安に苛まれてしまうという必要はありません。生物的なメカニズムから考えるととても生きやすくなるなと思いますね。

■孤独を感じるのは本当に助けが必要だから

― 一人でいると孤独を感じるのも生物的なメカニズムから考えると当たり前のことなんですね。

そうですね。例えば、私は昨年出産したんですけど、出産直後の女性ってとても孤独を感じやすいとよく言われています。それは、出産直後にエストロゲンの発現量が一気に下がるからなのですが、孤独を感じやすいようにすることによって、一人じゃなくて集団で育児をすることを促すための遺伝子の機能だと考えられています。

そういう時に、「私、何だかすごく孤独を感じる…」とか、「一人で育児をできない私は母親失格なのかしら」と悩むのはとてもナンセンス。生物的なメカニズムから考えて、「育児って集団でやらないといけないよね」とか、「自分の能力の問題、能力が劣っているからじゃないんだよ」って理解することで、行動も変わるし、すごく救われると思います。

― 高橋さんの本『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』でも、こうした考え方を提案されていますよね。

今回、お話したような生命原則を知って、生物的なメカニズムに沿った考え方だけではなく、自分はどうしたいのかという主体的に生きたい未来を創る力が大事だという話をしている本です。今は、特にコロナ禍において、将来の先行きや見通しが不安だという人も結構いるかもしれませんが、そういう時にどう考えたらいかというヒントになればいいなと思っています。

聞き手・文/長麻未

高橋祥子
1988年生まれ。京都大学農学部卒業。
2013年6月、東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に
株式会社ジーンクエストを起業。
2015年3月に博士課程修了、博士号を取得。
個人向けに疾患リスクや体質などに関する遺伝子情報を伝えるゲノム解析サービスを行う。
2018年4月 株式会社ユーグレナ 執行役員バイオインフォマテクス事業担当 就任

高橋さんの新刊『ビジネスと人生の「見え方」が一変する 生命科学的思考』についてはこちら。